覚者としての仏教

覚者として私の解る範囲・必要だと思う範囲に於いて、仏教の説明をしたいと思います。
私は粗独覚であり、境地に達しましたが、仏教を網羅して覚者となった訳では有りません。

悟り無我とする意見が多いですが、境地にたどり着いても無我にはなりません。
自然権は必ず残ります。あくまでも諸法無我です。

諸法も、森羅万象を示すものではなく施法・作法(礼)の事です。
施法は覚者によって行なわれるべき物であり、人気投票で選ばれた政治屋行が行なって良い代物では有りません。
諸法と無我を切り離さずに、必ず諸法無我としなければなりません。

不生不滅も「生まれることも死ぬことも無い」と言った訳の解らない事を指しているわけでは有りません。
○○を不生不滅という使い方をします。何事も生まず滅さず煩悩も生まず滅さずです。


唯識ベースでの実践

大円鏡智に達しないと転識せず、智は得られないとされてますが、大円鏡智以外は不断の努力で手に入れることが出来ます。

意識→妙観察智

何らかの事象に対し、自分が何を思ったかをつぶさに観察します。
事象に対し何らかの言葉・行動が阿頼耶識から発せられますが、それが法・戒律に沿っているか観察します。
法・戒律にそぐわない言葉・行動が思いついたのなら、自らを律さなければなりません。

また、仁の思いに根ざしていない感情も律さなければなりません。

末那識→平等性智(小悟)

妙観察智を以て末那識を観察します。

阿頼耶識には第一の言葉感情の発端となる種子が多々有ります。
この種子から芽生えた第一の言葉・感情が末那識に現れますが、多くの人は無自覚に第一の言葉・感情を肯定し、実行します。

阿頼耶識は基本的に成功体験を覚え、第一の言葉を芽吹く種子を植えつけます。
悪事であっても、成功を続ければ成功体験として阿頼耶識に種子を植えつけます。

妙観察智を以て末那識を見張り、に基づかない言葉・に基づかない言葉・錯覚で得た権利らを自ら否定することによって、阿頼耶識に植えつけられた悪しき種子は取り除かれます
法灯明が必要になりますが、民法の骨子を得ることをお勧めします。
期間の定め等を暗記する必要は無いです。暗記では無く骨子を身に付ける事が大切です。

平等性智の文言通り、自分を含め他者・事象に際し平等で居られるかを意識しましょう。
平等性智の維持によって、阿頼耶識の転識である大円鏡智(悟り)の道が約束されます。

正業に就き、悪事を起こさない環境も必要です。
平等性智を維持することによって、輪廻から脱することが出来ます。

阿頼耶識(空)→転識→大円鏡智(空、悟り)

平等性智を維持することによって阿頼耶識転識し、大円鏡智に至り悟りを得ます。
仁に基づく種子・法に基づく種子、そして自然権が整った状態です。

無我では在りません。

大円鏡智を得た覚者と得てない者の違いは、覚者はインスピレーションで物事を判断し、間違わないという事です。当然得ている情報が狂っている場合は別ですが。

阿頼耶識・大円鏡智は言語を介さない思考です。
言語ベースで物事を考えるより、答えを出すスピードが断然に違います。

不断の努力で平等性智を維持することにより円鏡智として徐々に育っていきます。
偶にはインスピレーションに任せる、又は詩を書くことに拠り自分を試すことも必要です。


偽らず己を証すること。仁に生きること。

これらは仏教だけではなく、全ての宗教に通じることです。

縁起による自らの観察

ウィキペディアを読んだ感想ですが、縁起に因る推察はお釈迦様にしか出来なかったようです。お釈迦様から縁起を学び、得た者は居らず、後の諸派が考案したものに過ぎません。
なので、縁起を学び、実践するならば、

此があれば彼があり、此がなければ彼がない。
此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す。

コレしかないでしょう。十二支縁起は蛇足です。
一般的な会話を記していると思われます。

此が有るにも関わらず彼が無い。ならば、彼に何らかの他意が有り聞く耳を持っていないと言うことになります。

師が弟子を思い問いを考える。
これも「此が有れば」こそです。ここでも覚者は無我では無いと証明できます。


自灯明・法灯明

自灯明。それは己を拠り所に自らを整え成長すること。
唯識であれば、平等性智を維持すること。
そして己を拠り所にし、他を、民衆を知ること。ここでも無我は否定されます。

法灯明。「法」の解釈が現状の大乗仏教は壊れているため、無記とします。


仏教は分派が多く、それは権力闘争の名残でもあります。
蛇足を賞賛し権威を偽った結果、訳の解らない物になっているのが現状です。

蛇足を排除しシンプルな状態に戻し、他の宗教の神学として外典となり残るべきでしょう。

神学として仏教は絶品です。


戻る